昭和45年08月16日 夜の御理解



 「色は黒いが南洋じゃ美人。」踊れ踊れ、踊らぬものに誰がお嫁にいくものか。

 只今御祈念に掛らせて頂きます前に、久富さんがお届けされますのに、お食事を終わった後の茶碗を洗うておられる所を、御心眼にでしょうか御神夢でしょうか、頂かれたというお届けがありましたが、所謂第一期的な信心を終えられて、第二期的な信心が身に付いて行かなければならないと、言ったと言う様な事を、ま申しましたがね。今朝の御理解の中にもありましたように、「色は黒いが南洋じゃ美人」というね。
 あの御理解。それを私は、ね。苦労は人一倍させて頂いておる。そういういわゆる、苦労を修行と頂いて、ま一生懸命の修行を沢山持っている人ほど、合楽では美人だと。言うならば合楽では良い信者だと言う事になると、私は思うんですよね。色は黒いが南洋じゃ美人であるように。いわゆる苦労いわゆる苦労と言う事は修行。修行を一杯今抱えておる人ほど、私は合楽では素晴らしい。
 いわば信心を頂いておられるんだと言うことが言えるという意味の事を、まあ色々な角度から話しましたが、ほんとにその色々な角度からおかげと言う事がね。例えば桂松平先生の御伝記を拝聴いたしますと、桂松平について踊れと、こう仰っておられますね。桂松平のみな手に足になって踊れと言う事、そうすれば、桂松平が頂いておるような、いわゆる、桂松平先生の手になり足になるのですから。
 やはり同じ徳を受けられると言う様な意味の事を言うておられますから、桂松平先生について踊るということを、私は第二期というものは、そんなもんだと思いますね。一生懸命の、修行させて頂いて、内外ともに修行させて頂いておると、同時にただ修行しております、苦労しておりますだけでは、始まらない、それではいけない。やはり神様のご神意のまにまにいわゆる神様が、いわばままになりなさる事のために。
 私共は一生懸命いわゆる、親先生の音頭を先頭に、いわゆる手になり足になりするような、踊りが出来ておらなければならない。ね。今日は私、只今御神前に出たらね、今日は私、そのおど何ち言うたですかね、色が黒いの、黒いでも南洋では美人という、ま、歌詞が、歌の文句の続きの、踊れ踊れ、踊らぬものに、誰がお嫁に行くものかと、やっぱ、同じ歌なんですよね。
 ですから結局踊れ、踊れ、踊らぬものに、誰がお徳を授けるものかという事になるのじゃないのでしょうかね。今晩そんなことを頂かせて貰うて、第一期的な信心から、第二期的な信心修行の完成。それは私は神様のお働きのまにまに、いわば神の手になり足になって、いわば御用させて貰うというか、働かせた貰うというか、いわゆる踊らせて頂くという所になるという風に思いますですね。
   どうぞ